井上毅論集『梧陰存稿』を読む

~国語ができれば賢くなる?!こどもの脳発育のために重要な国文教育~

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(前回はコチラ)

⇒ http://amba.to/2r1XwGK

 

■序文:梧陰存稿国文の部小言

まず「梧陰存稿国文の部小言」というタイトルで序文が書かれており、井上毅がなぜ、本書『梧陰存稿』を公刊しようと思ったのか、その理由が書かれています。

  

※誤読している箇所があるかもしれませんので、その時はご指摘頂ければ幸いです。

(意訳)

梧陰存稿国文の部小言

若い頃は好んで漢文を学び、文を磨こうとしていた。中年の頃から顧みて、その非を悟り、文部の職を受けるにあたり、公衆に向かって漢文は廃止すべきであることを明言し、己の職に拘らず一個人として有志の末列に加わる誓いを立て、国文興起の盛運をたすけるべきとの志をも公にしたのは、やむにやまれぬ心の切なる思いを述べたものである。

 

将来、国文教育が再び繁栄に向かうだろうというのは、噂話を風で捉えるかのように根拠のないものであるようだ。

世の著述家、ジャーナリスト達は不規律な雑文(漢文崩し)の慣習を使用し、規則だっている国文など相手にもしていない。

 

また国文刊行雑誌の載せる、道の記、旅の記など伊勢物語、土佐日記のまがい物のような梅の記、櫻の記、楓の記物も、四季の咏こそ優雅に書き記すとも実用に値せず、三鏡または古今の注釈などは研究され尽くしている狭い分野のものでしかなく、一般の百科芸術経済政治社会に何の影響もあろうはずがない。

きつい言い方をすれば漢文にも劣る不要物であるといえる。

 

国文教科読本の目的は、読法および文法を授け、音調を正し、さらに読本により記録された事実をもって、間接的にほかの諸科を学ぶための基礎とすることにある。

 

故に、国文読本はなるべく単純な文章を選んで、高等教育に従って高尚な古人の名文を教えるべきで今日に不要の死語を用いた多くの注釈を必要とする文章を教えるべきではない。(専門家は除く)

 

にもかかわらず、盛衰記や義経記などまがいものの文章を優美だとし、また当時だからこそ美談として広く世間に広まっていたものを今日の教科書の選章としたるは何たることか。

 

某樓記遊、某山記がどれほど上手い文章だと言っても、それは奈良、平安の頃に真っ先に学ばなければならないものであって、富国強兵の現代にあって修めるべきは実学でなければならない。

 

国文教育における障害物の最たるものは現代人であって殊更に漢文を学んでいる化粧の怪物どもであろう。(私は現に中学読本で行われている第四第五の巻は廃止すべきだと思う)

 

このような有り様であるにもかかわらず、国文学者および教育者の中からも国文教科書の改正を提言する人が少ないのはどういうことか。

 

嗚呼、国文よ。千年来、暗黒世界に沈み込んでしまったことで、その輝きを万丈に放つ力すら失くしてしまったのだろうか。

 

その絶望的な状況は一向に止む気配がない。とは言え、(日本は)言霊の幸はふ国である。

国文教育の発達が国家の運命を左右するのだから、世の人が決して放置するはずがない。 

 

時は既に来ている。将来必ず豪傑なる人物が現れ、閉ざされた世界から抜け出し、幼稚な学説を斬り、奈良平安の巣から脱して、大いに国文教育の組織を拡張し、近世の学術経済百般の書物を網羅し、天地に至るまで広く影響を与え、西洋の緻密なる論理法を自在に操り、支那の豊富な文材を使いこなし、わが国の文明の発達を成して、旭の光が弥高く、豊かに登る勢いを示すに違いない。

 

国文存稿を出版するにあたり所感を記した。

(了)

 

■明治における国文教育の意義

この「国文の部小言」から察するに、明治28年当時、まだ書き言葉は漢文を教えることが主流であり、国文(日本語で書かれた文章)を教えることはまだまだ主流とは言い難い状況だったようです。

 

そうした状況に、井上毅は居ても立ってもいられず、出版を決意したのが本書『梧陰存稿』であることが、この序文から伺えます。

 

それにしても「漢文は廃止すべき」とまで言い切るとは穏やかではありません。

一体なぜ、井上毅はそこまで国文教育に拘ったのでしょうか?

 

この序文を読む限り、井上毅が何よりも重視していたのは百科芸術経済政治社会において通用する「実学」であったように思います。

 

だからこそ、実学の習熟に何の役にも立たない、今は使われることなく死語となっている言葉を多用し、文章の煌びやかさのみを修めようとする漢文(あるいは漢文を教える教師)を「化粧の怪物」と称したのではないでしょうか。

(現に、国文であれば何でも構わないと言っているのではなく、国文刊行雑誌の載せる、道の記などは「漢文以下の不要物」と言っています。)

  

西洋列強に追いつくべく、近代化を進めていた当時にあっては、大いに産業を興し、国を強くする必要があり、そのために学問を修める必要がありました。

それは漢文では成し遂げられるものではなく、国文によってこそ成し遂げられるものだったのでしょう。

 

とはいえ、「支那の豊富な文材を使いこなし」としているように、実際には漢文は漢文として大いに使いこなせと言っていることにも注目すべきではないでしょうか。

 

■現代における国文教育の意義とは

では、現代における国文教育の意義とは一体何なのでしょうか?

 

巷では組織的な再就職あっせん(天下り問題)や前事務次官が出会い系バーに出入りしていたという、なんともため息が出るような話題しか振りまかない文科省には、次のように掲載されています。

 

(以下抜粋) 

【小学校/中学校学習指導要領】

言葉による見方・考え方を働かせ,言語活動を通して,国語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり育成することを目指す。

 

(1) 日常生活に必要な国語について,その特質を理解し適切に使うことができるようにする。

(2) 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高め,思考力や想像力を養う。

(3) 言葉がもつよさを認識するとともに,言語感覚を養い,国語の大切さを自覚し,国語を尊重してその能力の向上を図る態度を養う。

(抜粋終わり)

 

正直、わかったような、わからないような、今一つ掴みどころがない内容のように思えます。 

これを読んで、「やっぱり国文教育は大事だ、大いに勉強しよう」と思う人はそれほど多くはないのではないでしょうか。

 

■脳の発育のために重要な国文教育

むしろ、「国文教育は、脳の発育のために決定的に重要である」とする方が簡潔明瞭でわかりやすいような気がします。

 

脳障害児治療の先駆者として、また、健常児の早期発達に関する活動で、多大な功績を残したグレン・ドーマン博士の著書『親こそ最良の医師』には次のようなことが述べられています。

 

(以下引用)

ものを学びとる能力のある唯一の器官である脳は、テレビを通じて大きくてはっきりしたことばを、耳を通じて「聞き」、それを脳独自の方法で解釈する。

同時にその脳が、テレビに大きくはっきりと写された文字を、目を通じて「見」、まったく同じ方法で解釈する。

こどもの脳にとっては、像を「見る」のも音声を「聞く」のもまったく変わりない。

(引用終わり)

 

像を「見る」のも音声を「聞く」のも、まったく同じ方法で解釈するのであれば、日常生活でしゃべったり、聞いたりする言葉使いや話し言葉で用いる文法で書かれている文章の方が、脳にとっても理解しやすいという結果になるのは、ごく自然な結果ではないでしょうか。

 

それが井上毅がいうところの

「国文教科読本の目的は、読法および文法を授け、音調を正し、さらに読本により記録された事実をもって、間接的にほかの諸科を学ぶための基礎とすることにある。」

という事なのではないかと。

  

現時点においては、このような見解に至りましたが、「教育に正解はない」というのも一つの真理であると言えます。

 

機会があれば、小学校の国語の先生に一度「国語教育の意義とは何ですか?」と聞いてみたいものです。